今はもう遠い夢
―― 本当にそんなにドラマティックなシュチュエーションだったのかはわからないのだけれど、私の記憶の中では、その時は夕焼け。 砂漠に沈む燃えるような紅い紅い。 そんな風景の中で、自然と寄せられたあの人の唇を受け入れた。 目を閉じる瞬間に見えるのは、夕陽を映した銀の髪。 優しい、酷く優しい啄むような口付けの後、そっと目を開けると・・・・あの人は、笑っていた。 いつもキスの後見せたその笑顔は、穏やかだけれど、悲しそうだった事に私はその時初めて気が付いた。 『――』 名前を呼ぶと彼は壊れ物に触るように、私の髪を梳いて耳にかけてくれる。 『アイリーン』 柔らかい声で名前を呼ばれる。 『僕は明日、ここを立つよ。』 『!どうし・・・・!』 叫びかけた言葉の白々しさに、私は言葉に詰まる。 どうして、なんて聞くまでもない。 でも、私が気が付いていることなんてわかっていない振りで彼は自分で言葉を紡いだ。 『僕の銀色の髪は、少しは君の役にたてたみたいだから。』 ギルカタールの誰かが言ったなら、それは強烈な嫌味以外の何物でもなかっただろうけれど、彼の言った言葉は紛れもない本物の労りだった。 目を細めて、少しだけ悲しそうに笑って。 『・・・・ライル先生が何か言ったの?』 『そう、と言うと少し違うかな。僕自身少しは察していたんだよ。君はキスをする時、僕の目を見てではなく、髪に目を移す事に気が付いていたから。 あの人は、朧気だったものに解答を付けただけ。だから』 彼はそっと私の前髪を掻き上げて言う。 『いいんだよ、誰も悪くないから。』 ―― ああ、本当に・・・・ 砂漠に沈む夕陽に輝く銀の髪は、私を惑わせるほどにそっくりなのに。 ―― なんて、優しい人・・・・ それなのに、今この瞬間でさえ目の前の人で心が一杯になることはない。 心の、たぶん一番奥底に巣くった、彼と同じ銀の髪の・・・・酷く酷薄な男のせいで。 『・・・・アイリーン』 愛おしむように紡がれる自分の名前は心は震えなくても、呼ばれると嬉しかった。 けれど、その声が優しく終わりを告げる。 『悔しいからさよならは言わないよ。だからかわりに、言わせてくれ。』 そっと、彼の手が伸びて私の頬を拭う。 拭われて初めて、自分が涙をこぼしている事に気が付いた。 それが誰のための涙なのか、自分でもわからない事に酷く胸が痛んだ。 夕陽が沈む。 薄闇に浮かんだ彼が最後まで柔らかい声で言った。 『君が誰を好きでも、僕は君が好きだったよ、アイリーン・・・・』 「・・・・懐かしい夢、見ちゃった。」 目を開けて、最初に飛び込んできた光に目を細めた後、私はぽつっと呟いた。 目に映るのは、朝日を受けた見慣れたベットの天蓋で、夕陽に輝く砂漠の端じゃない。 けれど、胸の残る甘くて苦い感覚に苦笑いする。 誰ともなく気恥ずかしい気分で、身じろぎしようとした途端、ぐいっと肩を引っ張られた。 「!」 されるがままに転がった先には、銀色の髪。 一瞬、夢との境が曖昧になって目をしばたかせたけど、すぐに我に返った。 だって、銀色の髪が縁取る顔は恐ろしく美形で、葡萄色の瞳は不機嫌そうに冷たく私を睨み付けている。 「・・・・なんの夢だ?」 「なんだ、いつから起きてたの?」 質問に質問で返してやると、スチュアートはさらに機嫌を損ねたように呟く。 「お前が起きるより大分前だ。」 「それで、ずっと寝顔見てたの?」 たぶんそうなんだろうと思って言うと、カッとスチュアートが赤くなった。 (朝からよく血が動くな〜) 寝起きでぼーっとした頭でそんな事を考えていた私の間をどう取ったのか、勝手にスチュアートが切れた。 「そ、そうだとして、何か悪いことでもあるのか!?私はお前の夫だ!」 「力説しなくったってわかってるから。」 さくっと肯定してやると、安心したような表情をちらっと見せる。 (・・・・こういう隙が卑怯よね。) 傲慢で偉そうで自信たっぷり・・・・と見せかけて、実は弱点だらけで、私に対してだけは弱気なところがある、なんて絶対卑怯だ。 そのたびに、否応なしに惹き付けられてしまうんだから。 そんな私の心情にはお構いなしに、スチュアートは当初の不機嫌を思い出したらしい。 再びムッとした顔で睨み付けてきた。 「それで、なんの夢を見てた?」 「ん〜?」 適当な相づちを返しながら、少しだけ考えた。 素直に質問に答えたらどうなるのか、予想はついた。 スチュアートはとにかく嫉妬深い。 あの人の事だって、今でも刺客を差し向けて探させているぐらいだ。 私だって酷い目には遭わされなくても、お仕置きとか称して別の意味で酷い目には遭わされるだろう。 (・・・・でも) 今朝はなんとなく言ってやりたかった。 きっと、スチュアートの髪が朝日に銀に輝いているせいだ。 「ねえ、スチュアート。」 「?なんだ?」 「あの人は見つからないでしょ?」 私の紡いだ言葉に、スチュアートの表情が凍り付いた。 そして徐々にその表情が怒りに、憎しみに歪む。 凶悪でちっとも優しそうじゃない。 もし私が逃げ出そうとすれば、私を閉じこめるために酷いことくらいやってのけるだろう。 それどころか、今まさに何か言葉を投げつけようとしたスチュアートの頬に私は無造作に手を伸ばした。 「あの人は見つからないわよ。」 「・・・・見つけてやる。」 伸ばされた手首を握られた。 けして優しくない力で握りしめられるけれど、顔を歪ませたりしない。 「見つけて、死んだ方がマシだと思う程の苦痛を与えてやる。」 「無理よ。」 「お前っ・・・・!」 「無理。だって、あの人は・・・・夢だったんだもの。」 握られた腕の痛みを無視して、私はもう片方の腕をスチュアートに伸ばした。 そして、触れる。 ―― あの人がしたように、触れただけでどれほど愛しく思っているか伝わるように。 「あの人は夢だったのよ。優しくてフワフワしていて、幸せな夢。 ・・・・でも、私は信じられない事に、現実ばっかり見てたのよ?だから夢は消えちゃった。」 すっとスチュアートに顔を寄せれば、葡萄色の目がしつこく不満を訴えてくる。 ちっとも優しくない、ちっとも『普通』じゃない・・・・でも、この人以外に惹き付けられる人なんていないんだから、大概私もどうかしてる。 「しょうがないわよね。だって、いつだって夢より現実の方が強いんだもの。」 苦笑混じりの言葉に込めた意味をどれぐらいスチュアートが受け取ったのかはわからなかったけど、赤くなるほどに握られた手首が緩んだ。 だから私はゆっくりと唇を寄せる。 細くなっていく視界の中をちらっと夕陽の赤が過ぎった気がしたけれど、もう間違うことはない。 目を閉じる瞬間に見たのは ―― 葡萄色の甘い瞳だった。 〜 END 〜 |